台東天后宮の沿革

清光緒14年(1888)六月、卑南庁に駐在する水尾(瑞穂)撫墾局委員雷福海、田畑に対して賦課した税金を苛酷に徴収され、また民婦を侮辱したため、大庄(富里)の農民は原住民数千人と糾合し、武装抗争するように誘発しました。民衆は水尾の軍営を襲って、武器弾薬を強奪した後に、南下し、卑南庁署を焼き払い、統領張兆連が率いている「鎮海後の軍営」を包囲して攻撃し、当時、軍営内にいる百三十数名のみの将兵が防衛のために駐屯し、その上、水源はすでに断ち切られていて、情勢は危険きわまりないのです。危機一髪の時に、張統領は早急に軍隊を派遣し、井戸を掘らせて、深さ十六メートルに達したんですが、泉に及ばないでした。ですから線香を燃やし、媽祖の前に加護されるように祈り、突然甘泉が湧き出し、士気は大いに奮い立ちました。軍隊がたてこもって十七日間まで死守してから、清政府が軍艦を派遣し、兵隊を乗らせて応援に駆けつけるように、事変を平定しました。

 

光緒15年(1889)、張統領は媽祖が救助するのに感謝するため、寺院の建設を提唱し、支給された養廉銀を真っ先に寄付し、そして部下と地方地主を始め、共に参加しました。特に自ら台南の大天后宮に向かって媽祖にお礼を申し上げ、「霊助平蛮」の扁額を掲げ、そして積極的に計画し、寺院を建てました。残念ながら建築材料を調達している際に、台南から船便で運んで来た途中で、不幸にも台風に遭遇し流失しました。しかし張統領は落ち込んでいなかったです。翌年(1890)再度募金して工事を始め、前の住所は今台東市和平街東禅寺にあり、光緒は17年(1891)三月に落成しました、同時に光緒帝から「霊昭誠佑」の扁額をいただきました。媽祖は優しくて慈悲深いですから、霊験を顕し、信者がひっきりなしに続きます。

 

元の廟は竣工して初めから、三十数年間の風雨に浸食され、次第にその構造の安全さに影響します。大正十二年から(1923)連続数年間に起こした強烈な地震と台風の襲撃を受け、壁の柱に亀裂が無数に入り、そこで親切な地方地主が募金活動を発起し、再建に取り掛かります。慈善家呉金粦は一千六百坪の土地を廟の所在地として寄付しました。そして昭和5年(1930) には工事が始め、再建しました。合計で四万元の資金を出し、三年間をかけ、昭和8年(1933)に竣工して落成しました。手が込んだ立派な建物は極彩色の美に輝き、古色を帯び、我が国の伝統的な宗教芸術の文化的な特色があり、信者も多く、線香やろうそくが真っ盛りです。

 

昭和12年に(1937) 日中戦争が起こり、日本政府は国民意識を凝集させるため、「皇民化政策」を大挙して推進しました。翌年(1938)から更に「寺院整理」政策を行い、仏像を焼き払い、寺院廃止するのを主張して、幸に亡き県長呉金玉は理詰めで大いに論争し、当寺院は保存することができました。民国38年に大陸が敵に占領されて、国民政府は台湾に移り、負傷した兵士をゆっくり休ませるために、当寺院を借りて、「国軍臨時教育看護院」を設置しました。後ほど撤去されましたが、大半の寺院は依然として栄民の家族たちが住み着いています。信者は寺院まで焼香しに行こうとする際にすこぶる不便なことと思い、寺院の運営にとっては大変影響されています。民国68年、林献堂主任委員からの指導及び参画のもとに、全部の寺院委員が募金活動を発起し、勝利街で十八棟の家を建設し、寺院に住む栄民の家族たちを適切な場所に安置し、ともに田畑に証券をかえて売り、そこから得た所得で門楼を増築し、また両側の演壇および左右の鐘鼓楼なども増築し、境内全体の景色を一新します。線香やろうそくは再び盛んできて、東台湾の宗教信仰中心となり、清代東台湾に唯一の媽祖「官廟」として知られています。

 

民国99庚寅年に、十二年に一度の祈祷建醮活動に合わせて、主任委員林有徳が寺院会議で通すのを提案し、莫大な資金をかけ、三川殿と正殿前後両側にある色褪せた長屋を再び描き直し、石の彫刻を再度積み上げ、腐食した木柱は花崗岩の柱に変え、床は石板で敷き直し、民国92年に当寺院は文建会から「歴史建築」だと公告されています。民国103年7月に中英日の沿革碑、芳名碑、また建て替えをした際に記録した碑も完成しました。

 

民国104年7月15日の選挙に第六届管理委員会委員を改選し、委員林有徳が当選し、引き続き主任委員として勤めています。民国105年11月8日に財団法人台東天后宮を創立し、105年10月に霊泉井石碑を当寺院の昭忠祠に移しました。

 

民国106年3月に当寺院は「慶成醮」(道観・寺廟を新築、改築する時に行われるこの特別な儀礼は、土地の神を鎮め、平安を祈り、繁栄を祈願するという意味がある。)の儀礼が行われ、6月に全国金蘭会姉妹寺院の友誼結ぶ大会を行い、10月は梁皇法会を催します。107年に花東巡行を行い、翌年の十月に梁皇法会を催します。