「文昌」は神明の名であると同時に、星の名称でもあります。文昌は司科甲主文衡の星宿で、文昌宮の六星は上将、次将、貴相、司命、司中、司禄であり、紫微垣に属しています。元仁宗の時代に、文昌帝君はまたの名を「梓潼帝君」であり、延祐三年(一三一六年)には「輔元開化文昌司禄宏仁帝君」に封じられ、梓潼神と文昌星神が融合し、一人の神様になりました。《明史》の《礼志》に語っている:「梓潼帝君、氏張、苗字は亜子、蜀の七曲山に位置し、晋に奉仕して戦死した、人為的に廟を建て祭りました」。張亜子、つまり蜀人の張育、東晋寧康の二年(三百七十四年)に蜀王を自称し、武装蜂起に抵抗して反撃を加える前に、秦苻堅で戦死しました。後代の人は張育を記念するため、すぐ梓潼郡で七曲山で祠を建て、雷沢竜王として尊崇します。その後、張育祠と同じ山にある梓潼神の亜子祠を統合し、張育は張亜子と思われ、言い伝えられました。唐玄宗が蜀に入る時に、七曲山を経由し、張亜子が烈士だと感動され、死後に左丞相という爵位を追封し、そして祭祀を加えました。唐僖宗が避難で蜀に入る時、七曲山を通って、また自ら梓潼神を祭って、張亜子を濟順王に封じ、そして自らサーブルを解き、神様に捧げます。宋朝の帝王は多い敕を封じ、もし宋真宗は亜子を英顕武烈王に封じ、宋光宗の時に忠文仁武孝徳聖烈王に封じ、宋理宗の時代に神文聖武孝徳忠仁王に封じます。元仁宗延祐三年(一三一六年)敕に延び、「輔元開化文昌司禄宏仁帝君」に封じました。そこで梓潼神張亜子が文昌帝君と称されました。